No.192
2015.07 秀作鑑賞



今月の鷹誌から秀句の風景
         
小川 軽舟









梅咲くや我が晩節の白白(はくはく)と         小澤 光世                                  

  春先の凛冽な空気に香り高い花をつける白梅の姿に人間のあるべき姿を重ねる詠み方は、先蹤がないわけではない。

  勇気こそ地の塩なれや梅真白       中村草田男     

 がなんといっても有名だし、私の同世代では、  

  白梅や父に未完の日暮あり         櫂 未知子

 という句も、父が成し遂げたかったはずの志が娘である作者を前にして白梅のように香る。  小澤さんの句は白梅だとは断っていないが、白梅であることは明々白々。しらじらやしろじろではいけない。漢語の白白としたことで、古代中国から渡来し、その文化への憧れをかきたてた梅の花らしく典雅に香る。俳句とともにある明らかでくもりのない晩節。これから先の晩節をそう生きたいと作者は切に願うのだ。


















雲雀野もなし鉄塔の影もなし      小浜杜子男      

 奇妙な句である。雲雀野もない、鉄塔の影もないと言われて読者は何を思い描けばよいのか。ないと言われても、結局読者の頭には雲雀野と鉄塔の影が現れるのである。しかし、それはここにはないと言う作者の頭の中にあるものなのだ。  気が付くと読者は作者の頭の中の雲雀野に立ち、鉄塔の影を見ている。

 美しい風景でもなんでもない。むしろどこにでもある風景だから心に引っ掛かる。それは作者にとって何を意味するのか。いつの間にかその問は、読者の自問に変わっている。どこかにあるはずの雲雀野と鉄塔の影は、私にとって何を意味するのか。










山桜昼月淡くまぎれなし        藤田まさ子            

 困ったときの夕星(ゆうずつ)と昼の月だな、毎月多くの俳句に目を通す私はしばしばそう思う。季語の入ったフレーズが出来たがあと五音何か言わなければいけない。そんなとき、多くの作者は空を仰いで夕星か昼の月に助けを求める。どちらもそれなりに働くが、またこの手か、と思うと新鮮味を欠く。

 掲句の昼の月は、そのようにとってつけたような昼の月ではない。昼の月を端然と描いて手応えのある風景句に仕立て上げた。昼の月など名句にはならないと思っていたので目から鱗が落ちるようだった。  「淡くまぎれなし」が、山桜の咲く深い青空に掛かった昼月の描写として潔い。昼月がいかにも昼月らしく描かれたから、山桜の風情も一層引き立つのである。








猫だまり只今二匹花の昼        國持 重明

  「只今」というのが実況中継のようでおかしい。いつも近所の猫がたむろする場所なのだろう。しかし、今日はまだそれぞれの猫なりの用事があるらしく、いるのは二匹だけ。そのうちぼつぼつ集まり始めるのだろう。日がな一日それを眺める作者ものんきなものである。窓から猫だまりの見える喫茶店にでもいるのではないか。ここは近所の常連の社交場。でも、只今作者一人。猫だまりの猫は実は自画像だったかとも思われるのだ。









俳句:宇多 喜代子







湘子忌や雷鳴呆気なく終る       矢島 晩成

 湘子に落される雷を、かつては人一倍怖れ、そして今は人一倍なつかしく思っているのだ。もう一度あの雷を落とされてみたい、晩成さんならいかにもそう願いそうだ。  

  わが大き耳羽搏つがに夜の雷      藤田 湘子

 作者の目の前に大きな耳を羽ばたかせて怒る先師が立ち現れる。しかし、これから佳境というところで力なく静まってしまった。それが春雷というもの。意外にもこれは春雷らしさをそつなく描写した句と言えなくもない。





 
  
仰ぎたるビルへ歩みぬ新社員      筒井 龍尾  

 ビルを構える大企業にめでたく入社できたらしい。聳え立つビルの威容は、駆け出しの社会人にとって、会社そのもの、そして社会そのものとも見えるのだ。ビルの前に立ち止まって仰ぎ見る。それから潔くビルに吸い込まれていく。  そんな若者の姿を見つめる作者の視線が優しい。これまで日本の企業社会を支え続け、そしていまリタイヤしつつある団塊の世代ならではの眼差しだろう。








 
書:周東 清芳