No.189
2015.04 秀作鑑賞



今月の鷹誌から秀句の風景
         
小川 軽舟









炉話のやがて牙生え喰はれけり     伏見ひろし                             

 炉端で土地の昔話を聞かせてもらっているのだろう。梁がみしみし言いそうな大雪の夜である。どうやら人間が鬼に食われてしまう話らしい。炉火をじっと見つめながら聞く話はだんだん真に迫ってくる。ふと目を上げると、さっきまで温顔だった主人が牙を剥いて鬼の正体を表している。

昔話そのままに聞き手はたちまちその鬼に食われてしまった。  食われたのはあくまで物語の中のことだ──そう冷静を装ってはこの句は味わえない。物語はふいに現実そのものになる。怖い話を聞いた幼い頃の記憶が甦ってくる句である。子どもの心が物語の世界にすっかり入り込んでしまったときの感覚をいきいきと思い出させてくれた。


















狼の声を閉ぢ込め滝凍てぬ       荒木かず枝      

 凄絶な風景である。目の前に凍滝がある。狼の声を閉じ込めていると見たのは作者の主観であるが、それは作者の勝手な思いつきではなく、土地の記憶に促されるようにして立ち現れた幻影なのだと思う。絶滅した日本狼の最後の一匹は、明治三十八年に奈良県東吉野村で捕獲され剥製になった。奈良に暮らす作者には、東吉野村の時空からの呼び声が確かに聞こえたに違いない。凍てついた滝がまるで牙を剥いた狼の口だとも見えてきそうな迫力のある断定である。






たば風や流木砂に洗はれて       岸  孝信            

  たば風はたま風とも言い、冬の日本海沿岸で漁師に恐れられた北西からの暴風である。山本健吉は地方の生活と密着した気象の呼称を歳時記に採集することに積極的だった。特に漁師の営みから生まれた風の名が多い。たば風も山本の歳時記にあるが例句はない。せっかく採用した季語も例句に恵まれなければ定着しない。

 岸さんのこの句は、山本の意気に感じてというところだろう。しかし、なじみの少ない季語を読者に納得させるには確かな描写が必要だ。「流木砂に洗はれて」はそれに値する。たば風が浜の砂を流木に吹きつける。仮に「波に洗はれて」だったら凡作で終わるところだ。








たんぽぽや盲人に手を褒めらるる    林田 美音

  目の見えない人の手をとって誘導した。その人から手を褒められたのだ。あたたかくやわらかだったのだろう。褒められてうれしかったことは季語のたんぽぽから伝わる。手を通して心のやさしさも伝わったのだと感じられる。  盲はもとより盲人という言葉さえ差別的だと自制する風潮があるが、詩歌はどんな言葉も忌避すべきではない。一人の詩人としての良心を持って誠実に言葉に向き合えばよい。









俳句:加藤 明虫







狼に少し遅れて人滅ぶ         加藤 静夫

 荒木さんの作品の剛球ぶりに比べて、加藤さんのこの句はいかにも加藤さんらしいひねりが利いている。日本狼が絶滅してすでに百十年経つ。人類が滅ぶまであとどのくらいの時間が残されているのかわからないが、地球の長い歴史の中で見れば、しょせん「少し遅れて」なのだ。大神と畏怖された狼をも滅ぼしてしまった人間にとって、もはや自分たちを滅ぼすのは自分たち自身しかない。それなのにその日はそんなに遠いわけではないらしい。  





 
  
冬晴や青信号で渡りきる        近藤 久子  

 老いて不自由な脚では一回の青信号で渡りきるのがむずかしい道幅なのである。息を整え、杖を握り直し、青信号に変わるや否や気持の上では全速力でゆっくり前へ進む。そして、なんとか青信号のうちに渡りきれた。若いうちは当たり前にできることが、年をとればそうでなくなる。そのことを私たちに訴えて、しかし少しもめそめそしていないところがよい。渡りきって仰いだ冬晴の空がすがすがしい。








 
書:周東 清芳