情報化社会の言語環境を考える 





いよいよノストラダムスの予言する、私たちの「最後の七月」がやってきた。これを機会に今日的ダイナミズムの中に終末ブームならぬ革命的な情報発信媒体である、インターネットという黒船に置きなおして考えてみたい。

日本では、いまインターネットの利用者数が猛烈な勢いで伸びている。所帯普及率が、わずか五年間で十一%に達し利用者は約千七百万人に広がっている。女性のインターネット利用も確実にふえており、電子商取引での最終消費財の市場は、昨年の約二倍の千六百六十五億円にまで成長した。

今年の通信白書は、デジタル化された情報交換によって、もたらされる新しいビジネス、ひろがる生活活動と多様化する価値観、新たな犯罪の発生などを特集しているが、読みすすむにしたがって、変革する社会への迅速な対応の必要性をつよく感じる。

衛星通信の出現もあらゆる意味で、過去との劇的な訣別を画するものだ。最初の通信衛星が打ちあげられたのは三十一年あまり前に過ぎない。 今や、地球の上空には、そうした衛星が二百個以上もある。史上はじめて世界の端から端まで即時通信が可能になった。

モールスが、トン・ツー信号システムを発明してから約百五十年後の一九九九年二月一日、モールス信号は世界の舞台から消えた。フランスは、すでに二年前、近海でのモールス信号使用を中止している。

「全員に告ぐ。これはわれわれの永遠の沈黙の前の最後の叫びである」いかにもフランス的で華麗ではないか。百年以上前に、発明されたばかりの電話が何の役にたつのか、当時の人々は理解できなかった。

電話の発明者、アレクサンダー・グラハム・ベルでさえ、みずからの発明が第一義的には、情報伝達手段に過ぎないと考えていたという。 電話の最大の用途が人と人とのコミュニケーション手段になるとだれが想像しただろうか。

電子の世界は電子メールの洪水状態だ。チャット(おしゃべり)や、ネット上のグループへの参加も急拡大している。途上国と先進国、人と文化との絆を深め世界を縮小させた。 情報や真実を送る技術によって、より平和な世界を作ることができる。既存のそして未来の、テレコム技術はより繁栄をもたらすだろう。

しかし一方では、社会問題に関する保守主義者たちは、インターネットに罵声を浴びせているのも事実である。子供たちにポルノを提供し、さまざまな犯罪の温床になっていると非難する。英語が、大手を振ってわがもの顔にのさばりカタカナ英語のオンパレード。このカタカナ英語の跳梁が、横文字に弱い中高年者をパソコンから遠ざける要因になっていると非難する。

だがそれは違う。これらはインターネットの基礎的な欠落ではない。情報化社会の言語環境を考えるとき、いつもマイナス面が強調されることが多い。 よいことがあれば「ラッキー」、失敗すれば「さいあーく」、腹が立てば「カチーン」。主語も、動詞も、助詞もない単語だけの会話が見られるのも、パソコンや、テレビゲームと向き合っているからという。

ハイテク文明が、確実に日常生活のなかに、広がっていることはたしかであるが、ことばが乱れている、若者のことばはなっていないと嘆くのは、いまに始まったことではない。程度の差はあってもいつの時代も似たことを繰りかえしてきた。

ドナルド・キーン日本文学者の講演のなかに「信長が京都に入ってきた桃山時代から、日本語が乱れている」と指摘していたように記憶しているが、ギリシャの昔からそうだったという説さえある。

言葉は生きものだから変わるのである。変わろうとするのである。際限もなく、生まれるアミーバのような日本語を切ったり、つなげたりして日本以外では全く意味をなさないカタカナ英語を作りあげている。こうした現象は広がっても減ることはあるまいと。

言語というものは、思いのほか強く保守的で規範性をもっていて新しいものや、ちんぷんかん語が現れても、すぐに骨格がゆれたりするほどやわではない。インターネット上でのことばや乱れが目立つからといって日本語が亡びたり、死んだりすると考えるのは杞憂である。日本語はいい意味も悪い意味も含めて世界に冠たる柔軟な言語であると考える。

戦後の当用漢字千八百五十字から、現在ではかなり枠が外されているが、私自身はどちらかといえば、漢字の世界に育ち、いまだに漢字の世界を精神上の故郷として雑文を書き、俳句の字面に添い寝をしている。この種の人間が何か事あれば老女と呼ばれるのが落ちである。手元においてある鏡を見るのも癪だから、もうすこし言ってみたい。

日本語最大の問題は戦後の漢字制限であり、カタカナ語の氾濫はその結果である。日本人は新聞を一日平均四十分、二万字程度読むというが、二万字書く人はいない。読める漢字の枠を広げることによって、漢字制限による漢語造語力の衰退の復活が図られるのではないか。

フランスでは、みだりに外国語を使った公文書に罰金が科せられることになっている。フランス語に同義語があるのに外国語を使った場合が対象だ。広告、商品名、歌詞を含む放送番組の内容から学会発表までことごとく取り締まられる。ウォークマン・ファストフードなど、耳になじんだ語彙もご法度である。ブルドーザーはなんと呼ぶのか、ハンバーガーは何と?仏のマスコミも、珍奇なフランス語を発明してはふざけているらしい。 カタカナ語の、はんらんを言いたてるのはたやすい。が、それより、わが国もチェック機関を設けて使いすぎに気をつけるように、努力をするべきではないか。

インターネット上で、中国のパソコン用語集を見るとカタカナのように便利な、表音文字がない中国では、ジャンボ機(珍宝机)、コンピューター(電脳)、テレビ(電視)、カーソル(光標)、ビデオ(録影)、プロパティ(属性)、エイズ(愛滋病)、インターネット(国際聯網)、デスクトップ(軟盤)、ボーリング(保齢)などなど、うまい音訳語または意訳語である。

エイズを愛滋とは意味深長ではあるが、そのおそろしさはピントこない。中国には古くから、「お前の子供が、面白い時代に生きるように祈る」という呪文がある。変転することばのながれの世界にあって俳句を見てきた一俳徒としての私は、現在が最良の時期であるにせよ、最悪の時期であるにせよ、生きていて最もおもしろい時代の一つであると宣言せざるを得ないではないか。

インターネットのおもしろいところは、誰でもいつでも自由に大メディアと同じように情報を発信できることであるが、その分こちらの知性も問われる。これほど自分がさらされるメディアはないであろう。そして、こんなに覚悟のいる作業をしたのも始めてなので私自身の精神の芽も一ミリか二ミリ、成長しない限りこのメディアも大きくならないという気にさせられている。

昨年の五月三十一日「電脳山田村塾」が、富山県の山田村に発足した。全国の地域情報化リーダーを集め、育成する組織であるがインターネット利用も盛んになり、いまや山田村は富山よりも有名であるらしい。

アリババの「開けゴマ」式の呪文の魔力にも似たような、過剰な期待もどこかに生じているのであるが、ささやかな私の知的生活も俳句を書くこととインターネットによって、かろうじて支えられているといっていいだろう。

私のホームページの中から田邊香代子インターネット・ハイク・ワールドの連載の一部を紹介しよう。原句そして解説文の翻訳はD・クリストファに依頼している。主宰・田邊香代子の俳句の位相と揺れ。それは世間の鼓動にブレないで素人っぽい瑞々しさと「野に賢人あり」と、思わせるようなハッとすることばを、ひとつ色に染め上げないで俳句の中に散らしていくことである。目立たない形でさりげなく、ことばを濾せるだけ濾し沈黙の重さも微妙に配した作品群。第三の女性の時代を彩る香代子俳句のなかに、かくされている未開地がいま立ち昇りつつあるといえようか。

この未知の部分をインターネットを通して探っていきたい。解説文は「季節」誌に掲載される当月集作家の鑑賞文を素にしている。NTT・国際部の堀田課長に同行していただきクリスと座談を持った折り「日本語はどの外国語にも簡単に変換できないけれど、僕はむずかしいものを翻訳するのが好きなのです。無味乾燥になりやすい直訳よりも意訳に力を注いでいます。提供された作品の中から自分の好みの作品を前面にうちだして、おいしそうな俳句だと思った『かまくらに櫻あんぱん蜂蜜屋』が大変むずかしかった」と大笑い。

外国語のできない私のような立場の者でも、俳句翻訳の困難さとそれにつきまとう文化的な背後関係に身を寄せていく、訳者の苦労をひしひしと感じている。原句の上にサーッとカンナを掛けるというわけにはいかないのである。

     枳穀の実  地球まだまだ青いのか      上田 美絵

Bitter orange:
ビ・ター/オ・レン・ジ(5)
苦い オレンジ

"how long will the earth be green?"
ハウ/ロング/ウイル/ズィ/アース/ビ/グリーン(7)
如何に 長く  だろう この  地球は である みどり

your  round  fruit  prompts
ユア/ラ・ウンド/フルート/プロンプツ(5)
あなたの 丸い 果実は それとなく思わせる

翻訳の作業とは日本語と英語の、それぞれがもっている不思議なことばの力を掻き回し、ばらばらになったことば達が再び反乱を起こして生まれるものではないか。遠隔感というか紗がかかったような風情になるのも、至極当然という気がするのである。

こうして翻訳された俳句が海外では、どれだけ理解されているのであろうか。今世紀初頭から、英米に広まった翻訳俳句の多くはいわゆる芭蕉や蕪村といったわが国の伝統的な、古典的文化紹介といったところに力点が置かれていたように思う。

地球歳時記や、世界歳時記などの編まれている現代においてこれからの、俳句紹介の方向性は翻訳を通して、いまの風が吹いている俳句でなければならない。現代のサイクルに合った俳句のすがたを伝えることが、二十一世紀におけるわれわれの責任であるとかんがえる。

いつまでも、芭蕉という超個人的なものの俳句輸出では、内外の俳句ファンを淋しがらせるのではないか。私たち現代の者が培ってきた俳句のエッセンスを海外に開示することが、外国から多くの文化的資産を享受してきたわれわれの恩返しであろう。

物理学者であり、文学者であり、俳句にも通じていた寺田寅彦は次のように述べている。「一流の俳人で同時に一流の外国語学者でない限り、俳句の翻訳に手を下さないほうが安全であろう」と。『すばる』(七月号)の座談会「翻訳文学・日本語の可能性、翻訳者の精神」から一部抜粋する。

「全身全霊をかけて一語一語刻み上げたものが、いい翻訳であり名訳という信仰の時代は終わったと思います。名訳という、言葉の持っている迷妄、あるいは名訳という言葉に対する迷信は、いい加減に無くさないといけないと思います」と、いう清水徹氏の意見は直訳つまり逐語訳ではなく、原句とは少し違っても細心の注意と、作品にたいする愛情によって、なしとげられた意訳が、翻訳作品を成功に導くのであり決して一流の言語学者によってではない。という見方に私は深く首肯するのである。

私自身、メディアへの挑戦は始ったばかりで、このさきの展開について想像もつかないというのが現状であるが、ただ私は個人的に俳句に新しいメディアを与えてやりたいと思う。

美術も、音楽も、演劇も、舞踊も、映画も、メディアを活かしきろうということに関しては貪欲である。その貪欲さが俳句の世界にはない。それがここにいたって若者不在という事態を招いているとは考えられないだろうか。第三の波を迎える、現代俳句のための心理的な準備として、インターネットはまさにその友なのである。                    1999・10