夏目漱石(2)


       <落語と俳句>         


千円札に肖像が刷られた夏目漱石ほど、威厳ある容姿で知られた作家はいない。芥川龍之介が「夏目さんは私の知っている限りの誰よりも江戸っ子でした」と語った おそるおそる肖像の胸の扉を開けると、入る者を選別しているような気むずかしい雰囲気を感じる。

いつも苦虫を噛み潰しているような、毎日がドイツ人という印象である。ひとりごとの回転が止まらないうちに漱石めぐりの、けもの道をたどってみようか。 漱石の江戸っ子気質の形をなした背景には、若年において講釈・落語を通過しそこで演じられる話芸から、現実のうさんくささと離れた風雅の世界を目の当りにし、こころ惹かれたのであろう。

庚申の日に生れ、歓迎されざる子供であった夏目漱石にとって、寄席はこころやすまる別天地であった。 神様にもならず、名士にもならず、ひたすら静謐閑雅の境に身をおくことに憧れたのである。そうなるとたかが落語&講釈なんていえなくなるではないか。 このように頻繁な寄席通いも明治二十八(一八九五)年四月、愛媛県尋常中学校の教員として松山に移ったことによってひとまず終わりを告げ、イギリス留学から戻るまで長い中断症候群を迎えることになる。

松山に居を移した漱石の下宿に、明治二十八(一八九五)年八月二十七日、子規が住んだことをきっかけに、漱石は俳句作りに身を入れるようになった。もっとも、漱石に言わせると、


僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると毎日のように大勢来て居る。僕は本を読むこともどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かったが兎に角自分の時間というものが無いのだから止むを得ず俳句を作った。 其から大将は昼になると蒲焼を取り寄せて御承知の通り、ぴちゃぴちゃと音をさせて食う。其れも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走も取り寄せて食ったやうであったが僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。其れから東京へ帰る時分に君払って呉れ玉へといって澄して帰って行った。 僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せといふ。何でも十円かそこら持って行ったと覚えてゐる。(談話・正岡子規)


というような事情からであった。しかし漱石は子規の帰京後も句作を続け、明治三十二年までの五年間に、千六百五十句を越える多数の句を残した。

   永き日や欠伸うつして別れ行く

明治二十九(一八九六)年四月、松山を去る虚子を送った時の句であるが、「あくび指南」を連想させる。近所にあくび指南所ができたというので、男がいやがる友人に一緒に来てもらって稽古に行く。師匠は、あくびにも春夏秋冬、四季のあくびがあるが、いちばんやさしい夏のあくびから指南しようという。「まあ、夏は日も長く、退屈もするからというので、まず船中のあくびですねえ。では、お稽古にかかりましょう」
(麻生芳伸編・落語百選・夏)


というわけで稽古をするが、師匠のようにうまくいかない。それを見ていて連れの友人はばかばかしくなり退屈しきって思わず大あくびをする。「ああ、あのお連れの方はご器用だ。見ていておぼえた」永き日・日永は春の季語であり、夏ではないが日の長さを感じさせるのんびりしたとぼけた雰囲気と友人にあくびをうつすところには類似点がある。漱石も虚子も「あくび指南」を意識したうえでの送別の句とも考えられる。

子規が「俳句の滑稽は其間に雅味あるを要す」といった基準からはずれたものも多いが、なかにはさすがっと思わせるような雅味ある佳品も揃っている。

叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉(明二十八)

秋の江に打ち込む杭の響きかな

菫程な小さき人に生まれたし

安々と海鼠の如き子を生めり

時鳥厠半ばに出かねたり

別るるや夢一筋の天の川

冬来たり袖手して書を傍観す

漱石の内部で落語から摂取した栄養が、最後まで生き残っていたことを示している。大正五(一九一六)年十二月九日に死去した漱石は、小さんの「うどんや」が、生涯で聴いた最後の落語ということになった。

「たらちね」は御所へ奉公していた娘が嫁いでくる話女房言葉が馬鹿丁寧すぎて分らない。この間も目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」とのたもうたそうな。名を聞くと「そも我が父は京都の産にしてッ中略ッたらちねの胎内を出しときは鶴女と申せしがそれは幼名成長の後これを改め清女と申しはべるなりいー」

「ナァムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」これではかみ合わない。朝起きれば起きたで「アーラわが君、しらげのありかはいずこなりや」ようやく味噌汁ができたが、「アーラわが君、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹厳」「飯を食うのが恐惶謹厳なら酒ならよって(酔って)件の如しか」

大学で講じた「文学論」の中にも、「あゝわが夫」など不似合いの結果生じた滑稽を取り上げている。俳諧の俳は滑稽諧謔を意味する。つまり、おどけの風流心でありいつの時代にも、必要な文芸の典型ともいえるのだ。
2002.2