夏目漱石(1)


      書簡・俳句のさまざまな「愛」のかたち         
        

◇はじめに

ロミオとジュリエットが出あい恋におちる。ただならぬ情熱のときをすごしたのは何年ぐらいかと旺盛なゴシップ的好奇心で追ってみれば、なんとわずか五日間のできごとにすぎないそうだ。わたくしも夏目漱石(一八六七―一九一六)さまという、熱源をこころに秘めてしばし学習に身をゆだねてみたい。

近年、漱石の評価はたかまるばかりで、没後八十五年をむかえたいまも不景気の忠臣蔵のように、漱石全集が出版されるというのもあながち偶然ではない。
かくじつにうれる安全な作家なのであろう。昭和三年、十年、三十一年、四十年。いずれも不況のときに全集がでている。


◇漱石書簡のフシギな魅力


こうして不必要なほど大作家にさせられた漱石にたいして、いくぶんかはアンチ漱石派を名乗りたいわたくしであるが、こと手紙に関するかぎり掛け値なしに、わがくに随一の書簡文学とみとめざるをえない。

彼の書簡集は正岡子規にあてたういういしい素直さとするどさをかねそなえた青春書簡から、留守中の妻への手紙、さらには有名作家となってからの弟子、愛読者あてのものまで、その種類もないようもじつに多岐にわたっている。

読みだしてみると分量のおおさなどすこしも苦にならない。思わずひきこまれ、つりこまれて読まされてしまい、漱石といわばサシで話しあっているような、ふくよかでふしぎな親近感のうちに誘いこまれてしまう。

私は故三好行雄編の、漱石書簡集・岩波文庫を手にしながら一体このふしぎな魅力のみなもとは、どこからくるのだろうとかんがえてみる。 やはりそれは個性の厚みとしかいいようがない。うけてに応じたかたりぐち。多種多様なあいてに対して、うてばひびくようにすぐ谺をかえす。これぞ、はなれわざなりと驚きおののく。 人間漱石のあたたかさ、書くことに命をかけた男の面目、そして真摯な熱気がつたわってくるようだ。


◇漱石書簡のところどころ


   (明二十二・十二・三十一 正岡子規あて)

とかく大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず、近頃は篁村流に変化せられ旧来の面目を一変せられたるやうなりといへども未だ真率の元気に乏しく、従うて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少きやと存候。総て文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙するが妙味と被存候。

思想あるも徒らに章句の末に拘泥して天真爛漫の見るべきなければ人を感動せしむること覚束なからんかと存候。 北海道の土人に都人の衣裳をきせたるここちのせられ候。

子規の文章観にたいして、Idea論のたちばから注意をうながしたものとして興味ぶかい。文学や人生について若者のかんがえをすなおに打ちあけている。 かれらの友情がいかに、あつかったかを示すものである。

そういえば、きょう六月十六日の新聞記事にらいねん没後百年の正岡子規の野球殿堂入りが実現しそうだと書いてある。 わかくして結核におかされながら、日清戦争のときに従軍記者を希望したり、生涯を病苦のうちにすごした子規のどこに伝来してまもない野球に、うつつをぬかす情熱がひそんでいたのだろう。時代の、はやりものによわい部分もあったようだ。

子規が殿堂入りをすれば、親友の漱石もかけつけ日本人選手が活躍する大リーグ談義に花を咲かせるかもしれない。私も漱石のだいすきな東京は本郷の「藤むら」の羊羹をさしいれするだろう。
    (明三十九・二・十三 森田草平あて)

君、弱い事をいってはいけない。僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである。やりたくなくったってやらなければならん。君もその通りである。死ぬのもよい。しかし死ぬより美しい女の同情でも得て死ぬ気がなくなる方がよかろう。

死んでみたってつまらないよ。匂いぶくろをそっとしのばせた女を抱いて抱かれて。その方がよっぽどましではござらぬか、と。 敬愛する先生からこのような、てがみをもらえる青年のしあわせは、ほとんど奇跡的といえるだろう。ときには、かなりてきびしくたしなめ批判をくわえることもあるが、いわば全身のおもみをかけて弟子とむきあい、まともにうけこたえするという姿勢は終始かわらない。

(明三十五・二・二 夏目鏡子あて)

 其許の手紙にはそれやこれやにと音信を忘たり云々とあれど「それやこれや」とは何の言訳やら頓と合点不参候。其許はとまり掛にでも川住へ看病にでも被参候や。  さらずば二週間に一返の端書位かけぬひまは有之まじくと存候。冬着の支度とて朝から寝るまでかかる訳には有之まじく候

  それで「それやこれや」位な言訳でよしと思ふや。また多忙その他にて音信を繁くする事出来ずば何故始めより断り置かざるや。

さすれば此方にても心配なく一年でも二年でも安心して過すべきに、さりとては余り愚かなる事なり。よく考へよく思ふて口をきくべし。また事をなすべし。以来ちと気をつけるがよろしい。            鏡どの                 金之助

国家の留学生としての役目を果たそうとして異国でひとり必死になって勉強をしている漱石。あーそれなのに、故国にのこしてきた妻からのやさしいたよりは届かない。漱石先生、いまふうにいえばがぜんキレてしまった。

憤懣やるかたなきおもいが「それやこれや」とのいいわけはなにごとか。どうせ朝寝、昼寝にたっぷり時間をかけているのだろう。以後、ちーと気つけーッと爆発する。このあまえ半分の子どもじみた、てがみもまた漱石のいちめんなのである。
                

◇おとことおんなの葛藤


ソクラテスの妻クサンティツペ、トルストイの妻ソフィア、モーツアルトの妻コンスタンツェ、夏目漱石の妻、鏡子などは悪妻のうわさが高いが、この妻たちに苦しめられたであろう良人たちに、世間さまはおもしろ半分の、やっかみこそすれ同情などはしない。

悪妻たちに共通する、けたたましくも明るい、はつらつたる野性味と人情味にささえられたからこそ、ご亭主たちは後世にのこる芸術作品を世におくりだすことができたのである。 おたがいに求めあいながら、取れそうでとれない妖しげなバランス。そうした夫婦の修羅場のなかで、つちかわれた妻たちの性状でもあった。

俳句、写生文、漢詩の三位一体のかんけいのなかでの作家の心理を押しはかるのはむずかしいが、ときどき魂のリンスをし、エネルギーをたくわえて作品はみがかれていく。 悪妻というのはどうやら、いい男をつくる野性的なエネルギーと独立心のそなわった女性のことらしい。 したい放題勝手なことをやってのけた漱石は、対等にやりあえる女性、鏡子にめぐりあった幸運をこそよろこぶべきである。

 

◇忘れえぬ俳句のために

  

月に行く漱石妻を忘れたり(明三十)

アポロが月に着陸してから、はや三十年あまりがたつ。巨額な資金を投入したわりには拍子抜けするような結果におわっているのが現実だ。そして人類は煩悩のかぎりをつくして、空気や水を汚しつづけている。

そんなときNASA(米航空宇宙局)から発信された「月の水」そのことばに漱石先生の想像力は、いやがうえにもとびはねた。月のうさぎのイメージをひきつつ月の胎内から、ほとばしる銀色の水、あるいはブラックホールに吸い込まれそうになった水から、月のしずくが見えてくる。月の音」もさんさんと聞こえてくるではないか。

人生は祭だ。しばらくは月と過ごそうではないか。漱石は言っていないけれども月が作品がそう語っている。まあ今の時代ならこうなるのであるが、この俳句には「妻を遺して独り肥後に下る」と前書きがある。

ひさしぶりに上京し、何日かを過ごして流産後の妻を鎌倉に置きひとりで熊本へかえるときに詠んだものである。月の美しくなる中秋の名月のころ、夢ともうつつともつかぬ幻影の世界を追いながらひととき妻を忘れていたい。


菫程な小さき人に生まれたし(明三十)


スミレはたしかに小さな花だから、あしもとに咲いた姿をめでるには、しゃがみこんで顔を近づけねばならぬ。小柄ではあるけれど可憐であると同時に知的な風貌をもつ。

「小さき人」というイメージのなかには、その種の堅さと勁さがひそんでいるようだ。漱石が生きていたらアンチ「巨人」派でありパ・リーグのちいさなチームの熱烈なフアンかもしれぬ。

明治四十四年二月、文学博士を文部省が打診したとき「これまでずっとただの夏目なにがしで生きてきたし、これからもただの夏目なにがしで生きていくから」と、辞退した漱石の生きのありようにつうじているともいえる。

漱石は明治四十年、比叡山に登ったとき「叡山菫」を発見、採集している。それを東京の自宅にもちかえり庭にうえた。すみれは漱石がしたしみを持っていた草花であることがうかがえる。


草山に馬放ちけり秋の空(明三十二)


漱石が阿蘇をおとずれたのは明治三十二年(一八九九)のことであった。子規へ送りたる句稿として収録されている俳句がそれである。阿蘇の山々には草山がおおい。はなたれた馬は首を上下に振りながら、草のいろ土のいろのやさしい息を吐きだしている。

くさいろのひかりの中になびく、たてがみと尾は透きとおる曲線となってながれる。たんなる叙景俳句ではない。いままでつながれていた馬たちの放たれた気持ちがつたわってくるようだ。

漱石自身が、俳句の世界にあらわれた一頭の駿馬であった。

有る程の菊抛げ入れよ棺の中(明四十三)


大塚楠緒子の死を悼んだこの俳句は、追悼の句としては勢いがありすぎるようだが、一個の死は力をこめて言葉を手向けるべきだという充実したかんじがうかがわれる。それでいてさわやかだ。

楠緒子はしりぞく漱石をあきらめて大塚保治との結婚に踏み切ったかもしれない。小説家となって書いた彼女の作品群は、漱石のそれらと話の内容がかなり似ている。 漱石の作品を読みながら実在の彼女のことをいちいち思いだしたりはしない。しかし小説家、漱石のあたまのなかに何があったかはこれまた別のことである。
        叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉(明二十八)
        別るるや夢一筋の天の川(明四十三)
        秋の江に打ち込む杭の響きかな(明四十三)
漱石にとっての俳句は小説、評論などの本業を書くあいだの筆のすさび、あるいはアタマのレクリエーション、といったものではなかったか。俳句で休養をとる人格と、小説を書かなければならない人格をたくみにつかいわけながら、生涯につくった俳句は二、四五一句におよぶ。

夏目漱石は生誕のうんめいの皮肉を生き抜いて、自分のしごとを現代につないだのである。

2001.10